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ショパン
ヴァレリー・アファナシエフ (ピアニスト)
ボルヘスはかつて言った、読者は愉しむべきだと。
言葉を換えるなら、作家の主たる目標とは、読者に愉しみを与えること、となる。
そこで私は考える―画家、作曲家など他の分野の創造的な芸術家たちにも、
同じことが当てはまるだろう、と。
彼らは、いったいどのような愉しみを与えようというのか?
私の記憶が正しければ、ボルヘスはオスカー・ワイルドの書物が与えてくれる歓びについて語っていたのだった。
私もまたワイルドを読むことを愉しむ人間である。
ワイルドの同志たる作家たちが、この快楽主義者を非難しようと、関係ない。
とはいえ、ワイルドを愛するからといって、そのことがジョイス、カフカ、プルースト、ムジール、ベケットら、
私のお気に入りの20世紀作家たちを愉しむ邪魔になるわけではない。
このように、まったく相容れない、相反する歓びが同居することは、音楽の領域ではたとえばショパンとシェーンベルクの間に見出される。
私は2人のどちらも愛する。ときどき、各々の作品を聴くときに感じる歓びの区別がつかなくなることすらある。
そこで体験するのは、至福のほほ笑み、恍惚の身ぶるい、涙、といった身体の反応を伴う、純粋に音楽的な歓びだ。
そんな時私は、協和音と不協和音、調性と無調といったことなど、どうでもよくなる。
多くの人がショパンを心地よく楽しげなものと感じ、シェーンベルクを―単純だが私にはまったく受け入れがたい理由によって―耐え難くとまではいかなくても不快なものと感じていることなど、忘れてしまう。
ショパンは心地よくも楽しげでもない。
パリ人たちのサロンや親密な雰囲気のホールで、生計を立て、悲嘆を訴えるために彼が演奏するノクターンやマズルカが賛嘆の声を集めたことは事実である。
しかし19世紀のサロンは、軽音楽もカラヤンが解釈したベートーヴェンの交響曲も(フルトヴェングラーやクレンペラーでないことに注意して欲しい!)一緒くたにかかっている現代のスーパーマーケットとはなんの共通点もない。
これらのサロンや城では、18世紀と19世紀の最高の音楽が生まれ、演奏された(オスカー・ワイルドはサロンや城に多くを負っている)。
そこでは、人間精神の為し得る最高の達成を世界に届けようと一致した努力を行う、貴族と選ばれし芸術家との間の生き生きとした関係があった。
では今は?何たることだ、貴族(aristocrat)と芸術家(artist)という言葉の類似にもかかわらず、両者のつながりはもはや活力を失ってしまった。
さらに言うなら、「選良(elite)」など過去以外のどこにも見当たらない(もはや、進歩よりは懐古を好む国々にすら)。
かといって、過去に溯りたくとも、あらゆる種類のテクノロジーの新製品があふれているにもかかわらず、タイムマシンの類はまだ市場に姿を現してはいないというのが実状だ。
ショパンは、現代の映画のために心地よく、楽しげで、特徴のない音楽を供給するサウンドトラック作曲家と比較されるべきではない。
この商業主義的な世の中で、生計を立てるために、名声を得るために格闘しているほとんどの芸術家たちとは異なり、
彼が公衆の嗜好に迎合することはない―放送される彼の音楽を聴いた人々が何を思うとも、関係なく。
彼がはるかに大きな影響を受けていたのは、"名誉"と"悲しみ"という言葉が重要な役割を果たし、
"俗悪"という言葉を排斥するポーランド語だ(プーシキンは『エフゲニー・オネーギン』の中で、
"俗悪な"という言葉をロシア語に訳す能力がないことを詫びている)。
ベートーヴェンとウェーベルンに似て、ショパンは謎めいた存在である。
彼の作品は、アレクセイ・カンディーンスキイという優れた音楽学者の一人によって、
カバラ言語を用いた分析がなされたことがある(カンディーンスキイはリストのロ短調ソナタとムーソルグスキイ〈展覧会の絵〉にもカバラ的分
析法を用い、めざましい成果を上げた。
奇妙なことに、シューマンの音楽はこうした数理言語学的アプローチを受けつけないようだ)。
その一方で、カバラを熟知していない者でも、ショパン作品の質感を十分に楽しむことができる。
私は、彼のノクターン、マズルカ、ポロネーズ、バラードを演奏する時にはいつでも、ディケンズのことを思い出す。
文学評論家の見方とは正反対かもしれないが、その文章は、豊かで、強烈で、反響、転調、推移に富んでおり、どんな筋立ての助けも必要ないほどだ。
ショパン作品は、友人が私と議論している時に造りだした定義によれば、"固定された即興演奏"である。
この点において、ショパンは私にゴーゴリを思い起こさせる。
ことにショパンの、装飾に飾られたすばらしいカデンツァへの没入は、複数の物語を内包するゴーゴリの小説と、手法的に類似している。
ショパンはまた、悲しみと郷愁に満ちた、ダンテの『神曲・煉獄篇』を想起させる。もちろんシューベルトは、ショパン以上にひたむきな『地獄篇』の巡礼者だった。
しかし、シューベルトとダンテすら、ショパンの変ロ短調ソナタに一貫して響き渡る完膚なき絶望には驚いたことだろう。
その終楽章は、パオロとフランチェスカに悪しき世界をめぐらせる嵐だ(風 悪霊をただよはし[ダンテ『神曲』第5曲より 山川丙三郎訳])。
第3楽章が、世界中の葬儀へのサウンドトラックとなったことは驚くまでもない(しかしながら、変ロ短調ソナタを私たちは愉しみ続ける。
ある意味、それはマゾヒスティックな愉しみだ。
ハイデガーは苦悩を覚醒させることが哲学の主たる目標と考えた。
そして、レイ・ブラッドベリの『華氏451度』において、書物が危険で抗しがたい魅力を備えたものとされるのは、人を不幸にするためだ)。
この際はっきり言っておくならば、ショパンは私にあらゆる人々を思い起こさせ、そして何者をも思い起こさせない。
クラシック音楽をまったく聴かない者すら、ショパンの作品が流れてくると涙を流すことがある、
それは事実だ(そんな時、同じような涙を、私たちも流すものかどうか?)。
この点において、ショパンはベートーヴェンと似ている。
彼の〈悲愴ソナタ〉は、ウラディーミル・イリイチ・レーニンのような狭量で偏屈な男にすら賞賛されたのだ。一方、ショパンの作品は何物にも、誰にも似ていない。
そして私は、それらの作品が"天体の音楽"という表現で表されるものかどうか、確信が持てない。
たぶんそれは、"魂の音楽"と定義したほうがよいのかもしれない。
訳: 矢沢 孝樹(水戸芸術館音楽部門学芸員)
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